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いったん離れてみる

写真家梅田彩華さんからの次なる課題でまた見えてきたこと

· 音楽雑感

「服部さんにとって度々やってくるひょっこりはん的メロディーはどんな曲ですか?」梅田彩華さんから、ふたつめの入院中思考課題がやってきた。度々記憶から浮き上がってくるメロディなどあるだろうか。思いつくままにいくつか曲名を挙げてはみたが、それらは「ひょっこり」ではない。何か直近にその曲に関連する行動や体験や記憶があって、それを少しのあいだ引きずっているにすぎない。どうしても思い出してしまうという態ではない。

例えば子どもの頃にテレビCMだけで聴いた曲、あれはどういう曲だったんだ…という興味でYouTubeなどを漁ってみることはよくある。原曲やそのアーティストの別作品に興味が次々と飛び火するのも自然な流れ。そうなると2-3日はその曲に取り憑かれてしまうし、場合によっては音源を買い込んでさらに聴き込むなんてこともある。自然に生活の色々な場面でその曲は頭の中でリフレインすることになる。また、そういう体験をした曲は再び長く頭に残るので、その後確かに生活の思わぬ場面で思い出したりする。食卓で口ずさんでいて、家族から「またその曲??」と言われたりする。

だが梅田さんの言う「ひょっこり」とはそういうことではあるまい。何気ない生活の中でふいに頭に浮かんできてしまう…という意味だろう。そういう基準で考えていくと、実はそんなメロディを私は持っていないのではないかと思う。

少し大げさな話になる。自分の音楽を作る時、当然かなり没入して作業することになる。それは一方で視界を狭めていく作業だ。細部を磨くわけだからそうなるべきだ。しかし没入しすぎてもいけない。その曲自体が、たった今施した処置が、客観的に価値があるのかどうかも同時に判断しなければならない。そうなるとその曲からいったん離れてみるのが一番いい。極端に言えば忘れてしまうのがいい。そうしないとわからないことがある。いつの頃からか、私は自作曲をそうやって作るようになった。

集合知」というエントリーを別に挙げた。最前線の表現行為は、連綿と続いてきた先達の努力と挑戦の上に成り立っていて、同時代のまったく別の表現行為と密接に関わりあっている。だから自作曲をより良いものにするなら、音楽から離れるだけではなく、別の表現行為をもっともっと吸収した方がいい。音楽とは別の価値基準から改めて音楽を考えるという思考経路も持っていた方がいい。音楽のことはまたたっぷり没入して考えればいい。

実は生活から音楽を切り離すことが私はそれほど苦痛ではない。そして音楽と距離を置いている時間に、それでも頭の中から浮かび上がってくる音楽は今のところ思いつかない。先に挙げた例によれば、中学生くらいまでにしつこくしつこく聴いてきた音楽は、ふと頭の中に浮き上がってくることはある。中にはあまりに血肉になりすぎて、なんとかして離れようと苦悩する音楽もある。「音」を「楽しむ」ってのは案外に難しい。それでも針に糸を通すように、自分も他人も満足できる音を探すのみだ。