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集合知

写真家梅田彩華さんからの課題で気付いたこと

· 音楽雑感

とある病気で入院中、SNS上に「ヒマでヒマで…」のようなことを書き込んだら、梅田彩華さんが「じゃあ思考の課題を出してあげよう」とメッセージをくださった。梅田さんは関西在住の写真家だ。

そのお題は音楽に関するもので、「ベース(楽器)のメロディラインがかっこよく、バランスがとても良い楽曲を3つあげてください」。ネットに頼るな、という。もとより音楽のこと、印象に残っているものならば、私は当然自己の記憶の掘り起こしをする。病室のベッドの上で考えるのにふさわしい課題だと思った。

Tumblr:acatsukistudio 「ベースリフがかっこいい3曲

上記がひとまずの私の回答で、SNS上にこれを上げた。するといくつかの反応があって、それは当然興味深いものだった。意外な人が意外な曲を挙げてくるなぁというのが素直な感想。知らない曲もあるし、「あ、なるほどそれもアリだな」という曲もある。こういう話題はどんどん広がっていくものだ。リフレインの定義とはなにかという話にもなる。しかしこういうのはミュージシャンが数人集まれば発生しがちな話であって、面白いけど特別なことではないと私は考えていた。

SNS上のこれらのやりとりを見ていて梅田さんが「音楽はやはり凄い!!」というコメントをくださった。おそらくひとつの課題・テーマに対して、様々なバックグラウンドを持つミュージシャンが記憶と知識を注いでいる様を興味深く思われたのだろう。そこで私はふと思った。「音楽や音楽に携わる人が別にすごいわけじゃない」と。

逆に写真家の梅田さんに「3つ挙げよ」という課題を出すことだって可能だ。「3つの印象的なモノクローム写真作品を挙げよ」でもいい。梅田さんが挙げる3点に、写真家なら誰でも「他にもあれが…」とか「いや、こっちの方が…」という反応もできるだろうし、技法や機材など様々な視点でこの話題を広げることができるだろう。

こう考えると音楽にせよ写真にせよ、およそ表現行為というものは、これまで連綿とそれに関わってきた人々、今もその現場で努力し続ける人々の集大成だと言える。鑑賞者に新作として提示される作品はその最先端にあるものに過ぎないとも言える。誰からも影響を受けずに、自己の内面から作品が生まれてくる天才なんているのだろうか。技術の自己研鑽があり、過去の作品から学ぶことで感覚が組み上げられ、冒頭に挙げた私の例のように、リアルタイムで知見が高まっていく瞬間の積み重ねがあるに過ぎない。そしてそれは音楽や写真といった特定の範囲の中で起こるのではなく、あらゆる表現行為を横断して行われているはずだ。極端な話、優れた料理人の言葉に「料理人は優れた芸術を学び続ける必要がある。そうでないと料理を美しく清潔に盛りつけることもできない」とある。料理もまた体験行為だから、日本料亭なら建物の作りや照明、従業員の教育、清掃など、ありとあらゆる面に細心の気配りが必要になるのだろう(残念ながらそんなお店に行ったことはないけれど)。ありとあらゆるものが影響しあっている。

表現行為に携わる人は孤独になりがちだ。しかし今自分が作り上げようとしているものは、数え切れないほどの先達と、リアルタイムで交流できる同時代を生きる表現者同士の「集合知」から生まれようとしているのだと思えば、少し違った目で自作を見られるようになるかもしれない。梅田さんの課題から得るものとして一番大事なことは、そのことだったのではないか。