サイトへ戻る

日本の音楽教育に望むこと

これじゃあ「音楽が売れない」のも当然ってことで…

· 音楽雑感

子どもが通う中学校の校内合唱コンクールへ行ってきた。同じ区内の私立学校の立派な音楽ホールを借用して毎年開催されているコンクールをこれまでも毎年観賞してきた。短い練習期間で曲を必死に仕上げてくる生徒たちはもちろん、指導される先生方の努力もひしひしと感じられる。出来/不出来ではなくその一生懸命な姿に拍手を送りたくなるのだ。

客席で聴いているだけで「校内合唱コンクール」というイベントを取り巻く様々なことに考えが及ぶ。

まず気になるのはビデオカメラやスマートフォンで動画・静止画撮影する際の電子音だ。これが演奏中でも客席のあちこちから聞こえる。申し訳なさそうに鳴らす人がいる一方、まったく意に介さない人もいる。ちょっと驚いたことに撮影している先生もいる。特にステージで指揮者が腕を振り上げ、今まさに曲が始まろうという瞬間に電子シャッター音があちこちで鳴るのは、はっきり言って害悪である。

それでも観賞態度全般としては昨年よりも向上していると思う。私語が大幅に減ったし演奏中に立ち歩くような人も少なかった。生徒たちはお行儀良くしているので、保護者のそういう態度が余計に目立つという側面もあるだろう。私はこのことをマナーの低下、公共道徳意識の低下や欠如だとこれまでは思っていたのだが、どうも違うのかもしれないと思い始めている。

演奏直前や演奏中に余計な音を鳴らしても平気。演奏中でも自分が着席することが大事。そういう態度をとる人は、その行為が他の観客にどれほど迷惑をかけているか想像することができていない。できない人に自ら気付けと言っても詮無いことなので、学校は事前の各家庭へのお知らせや当日の会場アナウンスで、「演奏中の客席への出入りや立ち歩きは厳禁」「カメラやスマートフォンの電子操作音はミュートするように。それができなければ使用禁止」と案内すべきなのだ。演劇や一部のコンサートではマナーモード(のバイブ音)ですら迷惑だから電源を落せと案内する世の中なのだから。

そういう風に考えていくと、もっと病理は深いと気付いてしまう。「ステージ上の演奏者には敬意をはらうべきだ」ということがわかっていない保護者や先生がいるのだ。テレビの向こうでやっているんじゃない。彼らは客席の人々の一挙手一投足が見える場所で緊張して声を(音を)出そうとしているのに。この点、特に指導する先生方の見識も厳しく問う必要がある。たかが生徒の合唱なのだから、スマホのシャッター音が鳴ったり、多少の立ち歩きは仕方ないと思えるのだとしたら、それは演奏者への敬意が無いからである。中学生であれプロであれ、有料であれ無料であれ、表現者と相対する以上敬意を以て接するべきなのに。

私はおよそ芸術教育(特に義務教育期間と高校生くらいまでの12年間の美術や音楽などの時間)というものは、技術を教えることよりも「表現することは楽しい」ということを教えるべきだと考える。表現を楽しむために必要な技術を都度教えるべき…と言い換えてもいい。音楽に限って言えば、「歌を歌うことは楽しいということ」「楽器を演奏することは楽しいということ」「合唱や合奏は楽しいということ」を手を替え品を替え体験させるべきだと思う。合唱によって音楽を作り上げていく作業は(苦しくも)楽しいこと、その鍛練の結果をステージで発表するのは(緊張するけど)すごく楽しいこと。そういう体験をした人が、ステージ上で今まさに音をだそうとしている瞬間に「ぴっ!」だの「ぴろん!」だのの音を出すわけがない。演奏中に立ち歩くわけがない。

特に芸術分野の教育に携わる人は、表現行為の楽しさと苦しさについて骨の髄まで知っている必要がある。どれだけ身体や精神に負荷がかかっても、人間には表現したい欲求があることをわかっていなければならない。その上で子どもや若者にその楽しさを教えるべきなのだ。表現することの楽しみと苦しみがわかっていないと、人は表現者に敬意を持ちようがない。

私は中学生が心を合わせて歌う楽しい合唱を聴きたいだけなのだが、結局ふたりの子どもたちが小中学校に通った11年間、ついに聴くことができなかった。どうやったら音楽と楽しく付きあえるようになるのか誰も彼らに教えない。昨日できなかったことが今日できるようになることだけが進歩・成長と定義され「成績」になる。そりゃあ音楽に金を払う人が減るのも道理である。