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ミュージシャンじゃなくなる日

近年稀にみるアイデンティティクライシスを経験した

· 音楽雑感

風邪をひいた。

体力が落ちると精神的にも低空飛行になるようだ。今年最初のスタジオワークは、昨年からずぅっと暖めていた新しい曲を実際にDAWに打ち込んでみることから始めた。まずはハーモニー。プラグイン音源のエレピで。メロディは完璧に頭の中にいるので打ち込む必要はない(最後の最後でいい)。頭の中で6割りくらいはできあがっていたので、作業そのものはスムースに進んだのだが…。

困ったことに、まったく面白くないのである。

曲が良くないとは思いたくない。さすがにそれはちょっと。だがドラムとベースをある程度完成形に近い形で打ち込んで行っても、ナンと言うか、こう、胸の中に湧き上がる高揚感と言うか、そういう盛り上がりがない。おかしいなぁと思いつつ作業を続けたのだが、途中でやめてしまった。

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滅多にこういうことはないのだが、だからこそ逆になんだか不安になってしまう。「風邪を治すにはアドレナリンが必要だ!」くらいの気持ちで楽器の電源を入れたわけで、風邪っぴきで身体的にも精神的にも低空飛行な状態ではあった。何が良くないのかモヤモヤと考える。曲が良くない?確かに自分の予想を裏切るような要素がある曲ではない。演奏が良くない?確かに無難な演奏を心がけて録音した(本番録音のためのガイド演奏の段階だから)。決して演奏者自身が鼓舞されるような演奏ではなかったが…。

心身不調な時にこういう事態が発生すると本当に不安になってくる。「オレにはもう音楽をつくる馬力も能力もないのではないか」という不安である。音楽を作ったり演奏したりしない人生というものが、急にリアリティを持って迫ってくる。それはつまり「オレは何者なのか」という不安に直結する。ミュージシャンというアイデンティティを失った自分というのは、想像するだに恐ろしい。

みんなこういう不安とどう戦っているのだろうか。みんなとはすなわち自分の周辺にいる尊敬すべきミュージシャンズである。そもそも「オレ、もうダメかも」という不安を覚える瞬間があるだろうか。具体的に色んな人の顔を思い浮かべてみる。誰もが揺るぎない個性と存在感を備えている。私の知る限り、多くの演奏現場(ライヴやレコーディング)をこなし、どんどん技術や才能の貯金額を上げている人たちばかり。

2014-2015年の2年間、自分は意識的に引きこもってみた。あまり人前で演奏しなかった。その代わり曲作りや録音作業中に、自分なりの個性とは何かを自問自答し続けた。自分ができることは何か?という問いでもある。同時に「自分が本当にやりたい音楽とは何か」を考えるきっかけにもなった。その結果「自分は誰かといっしょに音を出し、1+1が3にも4にもなる瞬間を味わいたくて音楽に関わり続けてきた」ということをはっきり悟った。つまり実演しなければダメなのだ。

不安に襲われた時に思い浮かべた私の仲間たち(勝手にそう思ってる)は、誰もが実演の機会を重ね、1+1が3にも4にもなる瞬間をたくさん経験しているのだろう。だからこそ揺らがないのではないだろうか。そして自分自身もそういう経験を(幸いにも)何度か味わった。あの瞬間は幻ではなく確かに存在した。

と考えることができたら、「今録音している曲がつまらないなら没にすればいいだけじゃん」「良い曲が作れるようにもっと勉強すればいい」と180度思考を方向転換(笑)。ミュージシャン廃業の危機から復活した。

よく「心技体」と言うけれど、あれはすべての表現行為にも共通する真理だと思う。どの要素も等しく鍛えられている必要がある。あるマンガの登場人物のセリフに「死は生の先にあるのではなく、常に側にいる。もちろん普段はそのことを意識はしない。しかし身体や心が弱った時に、それは不意に顔を見せる」(意訳)というのがある。これは実に含蓄に富んだ言葉だ。「ミュージシャンだと思っていた自分が、明日と言わず、今日この瞬間からミュージシャンじゃなくなる可能性が常にある」という今回感じた恐怖も本質は同じことだ。ミュージシャンじゃなくなることが実はそんな特別なことではない。それがわかっただけでも良かった。