鍵盤ジェダイズが78-79年のYellow Magic Orchestra(以下YMO)のワールドツアーを、現代の楽器と機材と規格で再構築する試み、すなわち「kENBAN JEDI'S YMO LIVE」を再び開催した。もちろん2023年4月に花巻にて大々的に披露された"Public Beta"よりも盛りつけ多めである。
KENBAN JEDI'S YMO LIVE
2023年11月12日(日)14:00-15:00
クロステラス盛岡 シルヴァンプラザ
鍵盤ジェダイズ
北田了一(Syn._矢野顕子パート)
阪下肇之(Syn.and more_松武秀樹パート、SR他)
GON髙橋(Syn._細野晴臣パート)
服部暁典(Syn._坂本龍一パート)
サポートメンバー
阿部吉智(Dr._髙橋ユキヒロパート)
長野剛(Gt._渡辺香津美、大村憲司パート)
鍵盤ジェダイズについてはそのPublic Betaのレポートエントリーを参照いただきたい。引き続きドラムにサポートメンバーの阿部が参加。また今回から長野剛がギターで参加することになった。確かなテクニックと経験値に裏付けされた阿部のシャープなドラミングといい、絶妙なフレージングと"フー・マンチューヴォーカル"まで披露する長野のギターといい、どうしても彼らにとブッキングしたの阪下のあまりの人選の的確さに、メンバーとして舌を巻かざるを得ない。とにもかくにも、これで我々は担当パート的にも当時の状況再現が可能になり、つまりもうBeta版ではない、実質デビューライヴなのだった。
YMOの、しかももっとも鮮烈な印象を残す78-79年当時のワールドツアーの演奏を「再現」と吹聴すると、すわ完全コピーの職人芸的ステージかと勘違いされがちだが、鍵盤ジェダイズのそれはそういうものではない。あの当時、レコーディングに揺籃期のシンセサイザーを使って自動演奏と人間の演奏を融合することは斬新な手法だった。増してや機能の動作も不安定なそれらをステージに持ち込むことなど、かなり無謀なことだった。現代では当たり前に行われているそのスタイルの、まさに彼らは開拓者なのだ。YMOの78-79年ワールドツアーは、機材のトラブルなどステージ上では静かな大騒動があったものの素晴らしい演奏内容で大成功を収めた。だからこそ「再現」と聞けば、人は一音一音まで完全コピーの演奏を想像し期待する。だが考えてもみてほしい。そもそもYMOは一度としてレコード音源をステージ上で「再現」することはやっていない。常に人間の演奏と自動演奏を融合させ、楽曲に新しい表情を与えることに注力してきた。すでに結果を出したものをもう一度再現することに、あの三人はおそらく興味が無かったのだろう(人の手伝いで散々やらされていただろうし)。だとすれば、もし現代のデジタルシンセサイザーやDAW、モニターシステムがあの開拓時代に存在したとしたら、三人はどのようなアプローチをしただろうか。ファーストアルバム、セカンドアルバムに収録された世紀の名曲群をどう料理しただろうか。そんな仮説と実証を行う実験の場が鍵盤ジェダイズYMOライヴなのだ。
冗長であることを承知の上でこのライヴの背景を詳しく書く。70年代、YMOの三人はすでに「実力者」だった。細野はティン・パン・アレーやはっぴいえんどで一時代を築いた有名人。髙橋は新進気鋭のロックバンドのメンバーとしてイギリスツアーを経験するなど最前線にいた。坂本は売れっ子アレンジャーとして、また腕の確かな鍵盤奏者として睡眠時間確保すら難しい毎日。まさに業界を牽引するトップガンだったわけだ。その三人がひとつのバンドを結成し、シンセサイザーとコンピュータを使って新しい音楽を生み出し、なおかつ海外でチャート入りを目指す……と聞けば、YMOが如何に型破りなプロジェクトだったかお分かりいただけるだろう。
ここで重要なのは「とてつもなく楽器がうまい三人が、敢えて演奏しない」というアプローチそのものである。当時はジョルジオ・モルダーの自動演奏をフィーチュアしたディスコサウンド、クラフトワークのアルバムが英米チャートに食い込むという背景があり、当然三人もそこに目は配っていた。加えて細野は黒人でも白人でもない、黄色人種の日本人ならではのエキゾティシズムとコンテンポラリー音楽をミックスする手法=イエローマジックを標榜してソロ活動を続けており、人間の音楽的特性に左右されないコンピューター自動演奏なら、純粋に楽曲の良し悪しで世界に挑戦できるという野望もあっただろう。おそらく三人は楽器演奏が突き抜けたレベルだったが故に、演奏から人間らしさを消せる手法に魅了されたのだ。実際のところ結成直後に三人だけで「FireCracker」をスタジオ録音したのだが、あまりに普通の出来映えで「あれ?何か違う」となったらしい(今となってはその人力演奏版FireCrackerは超絶お宝音源なのだが、細野が「このテイク消していいよ」と言ったがために、マルチもその他の記録も残存していないのだという)。実際に音を出してみて、自動演奏と生演奏の融合という手法に一層の確信を持ったはずだ。
しかしトライアンドエラーが許されるレコーディングの現場ですら、それはスムースには行かなかった。ようやく一部の楽曲でシンセサイザーの音は聴かれるようになってきていたが、まだ色物扱いであり、一般人にはそもそも楽器として認識すらされていなかった。それに78年当時の音楽制作用コンピュータなど初代ファミコンにすら劣る性能だったし、当時のそれら楽器・機材は大きく重く、高価だった上に、それらを組み合わせて作曲家・編曲家の思い通りに演奏させることは専門知識が必要だった。そこで三人はすでにシンセサイザー奏者として名を馳せていた冨田勲の弟子、松武秀樹をマニピュレーターとして雇い入れ、演奏データ入力、シンセサイザーの繊細な音作りなど、機械の制御関連を一任していた。従ってそのシステムをステージに持ち込もうとした時、松武もまたステージに上がることになった。この「楽器を演奏しない人」がステージ上にいるというライヴスタイルも当時はものすごく新鮮……と言えば聞こえは良いが、珍奇なものとして聴衆には映ったものだろう。筆者もそのひとりだった。
専門家の松武が帯同してなお、ワールドツアーのステージ上ではトラブルが頻出した。当時のシンセサイザーは音源となる発信機が電圧制御だったため、国々での電圧規格違いに翻弄された。リハーサルでシンセが煙を吐いたなんてエピソードがある。さらにコンピュータの自動演奏と人間の生演奏を合わせるために、メトロノームの音をわざわざシンセサイザーで合成し、メンバーはヘッドフォンでそれを聴きながら演奏するというあの特徴的な演奏ビジュアルもこの78年当時に完成したものだ。この「演奏者だけが聴き、観客には聴かせられない音がある」という演奏スタイルは、現代のコンテンポラリー音楽の実演現場では当たり前過ぎるシステムとなったが、メトロノームの音(クリックと呼ばれる)の生成、演奏開始と終了の制御を文字通りライヴで実行したのはYMOの78年ワールドツアーが嚆矢であろう。ただでさえメモリー容量の少ない当時のコンピュータに1曲の間不断に鳴らすクリックを担わせるのだから、残ったメモリーの中でどの自動演奏パートを担わせるかも悩みのタネだったに違いない。その上コンピュータ用の演奏データを保存しておくメディアはカセットテープ。1曲のデータ読み込ませに5分以上もかかってしまうケースすらあった。当時の価格で100万円ほどもするローランド社の音楽用コンピューター MC-8を2台も並べて(データロードが終った方を交互に使う)、しかも演奏中にカセットテープを取り出すものだから「YMOの演奏は実はカセットで再生していて生演奏じゃない」などと頓珍漢な批判すら出る始末だった。
これだけ長文を書き連ねて読者にご理解いただきたかったのは、当時の機材で自動演奏を実現し、あまつさえステージ上にこれらを持ち出し、恙なく演奏を完遂することは困難に困難を重ねる挑戦でしかなかったということだ。何しろ前例がない。今となっては○○年△△月××日のどこそこのステージで演奏したあの曲は、実は自動演奏が途中から狂ってるとか、コンピュータが動かず仕方ないから生演奏で乗り切ったなどの検証が進んでおり、数多の武勇伝となっている。超絶楽器演奏が達者だったあの三人と矢野顕子と渡辺・大村の両ギタリストだったから乗り越えられたのだ。そしてYMOは、敢えてそんな苦労をしてでも、新しい音楽スタイル、演奏スタイルとしてそれをやってみたかったのだ。ワールドツアーを終えた80年年末の武道館での演奏は、サポートメンバーを含めた大所帯バンドとしてのYMOの集大成と言えるものだった。
そしてようやく現代の、鍵盤ジェダイズの話ができる。シンセサイザーはデジタル化し、当時のアナログシンセサイザーでは夢にも思わなかったほど多機能化、簡素化されて小さく軽く、安価になった。軽いどころではない。実体がなく、プログラム(アプリケーション)としてパソコンの中のソフトウェアとして演奏できるほどになった。あまりに巨大で家具の箪笥に準えられた松武のE-mu、Moogのモジュラーシンセを模したVCVというシンセサイザーはフリーウェアとしてネットで誰でもダウンロードできる。冨田勲が生きていたらなんと言っただろうか(富田は日本人として初めてMoogIII-Cモジュラーシンセサイザーを購入、当時の価格で1,000万円越え)。自動演奏制御もMIDIというデジタル規格で超安定。複数の電子楽器の出力信号をまとめるミキサーからクリックのモニターシステムまで、ありとあらゆる機材がデジタル化され、入手も容易になった。こんなに安定し、使い方次第で様々な可能性が広がる機材環境がもしもあの当時に存在したら、YMOの三人はいったいどんなアプローチであれら希代の名曲を聴かせてくれたのだろうか。もはや髙橋、坂本が鬼籍に入った以上YMOの再結成は永遠にあり得ない。しかしその可能性と面白さに気付いてしまった以上、鍵盤ジェダイたる我々は、それに挑戦せずにはいられない。「今さら78年のYMOかよ」ではない。「今こそデビュー当時のYMO」なのである。当時の途方もない挑戦を再構築してみるべきなのだ。
と、かっこよく見栄を切ったは良いが、今回の演奏に至る過程も紆余曲折がなかったわけではない(笑)。当初の計画ではジェダイ内の担当パートをシャッフルする予定だったが、よんどころない事情によりパートは引き継ぐことになった。坂本パートを再び担当することになった服部は、当然前回とは使用機材を入れ替える。ここにもひとつチャレンジがあった。使用楽器の詳細はエントリーを分けるが、ひとつだけトピックとして書くならヴォコーダーである。例のTOKIO!やBehind The Maskの特徴的なロボットヴォイスのための楽器だが、前回同様、阪下のNovation ULTRANOVAを借り受けたは良いが、準備期間中のある時から内蔵マイクプリが沈黙し、ライン出力にはノイズが乗るようになった。異なる接続で凌いでいたが、なんと代替品を阪下が盛岡から仙台の曉スタジオまで届けに来てくれるという過保護案件が発生してしまった。その阪下はシンセドラムのセッティングで設定地獄にハマるなど、今回は機材関係に思わぬトラブルが発生するライヴだった。それもこれも前回よりレベルアップしていて当然という空気がバンド内にあったからであろう。
セットリストも記しておこう。
1.Behind the Mask
2.Rydeen
3.中国女
4.Technopolis
5.東風
6.Cosmic Surfin
7.Fire Cracker
78-79年のメニューだから当然ではあるのだが、YMOの王道中の王道である。個々のフレーズなどは寝ていても弾けるくらい身体に染み込んでいるのだが、バンドとしてパート分けを施して演奏するとなると意外なほどに負荷が高く、機材のセッティングの煮詰めと並行して、思ったよりおさらいに時間がかかった。その甲斐あってリハーサルなし、当日のサウンドチェックのみという荒技で本番をこなした。阿部、長野もただ者ではない。
会場は商業施設のオープンテラスだったので、もともと楽しみに来てくださった観客以外にも、ふと通りすがりに「なに!?なんで今YMO?」と足を止めてくださった方もいたはずだ。1曲終わるごとに拍手が大きくなっていくのがよくわかった。演奏側と観客側の良いリレーションがあったと思うが、それを成立させるYMOの名曲の数々もまた素晴らしい。こんなことなかなか言う機会がないから改めて言う。素晴らしい楽曲たちだ。
ようやくデビューを飾ったと言える鍵盤ジェダイズの次のライヴがいつになるかは未定である。しかし担当パートシャッフルなどの新しい挑戦とともに、再びみなさんの前に現れるだろう。当然のことながらこの台詞で締めたいと思う。「次は、モアベターよ!」
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画像の一部は長野剛と観客から提供していただいたものである。しかし最大の痛恨事はメンバーの集合写真を撮り忘れたことだ