L to R 筆者、じゅん、あき、だんちょう
高校時代の友人ふたり「じゅん」と「あき」に会う機会があった。高校生の頃にいっしょに音楽活動をしていた仲間である。80年代半ばに高校生の音楽活動といえばバンド活動とイコールなのだが、じゅんとはカセットテープのピンポン録音でオリジナル曲をせっせと録音するという、かなりインドアだけどアドレナリンだけはばんばん出ることを日々続けていた。あきはクラスにひとりはいる「あいつ、ギターうまいぜ」な存在で、自然とバンド結成に結びついていった。
オリジナル曲だのバンド活動だのと言っても、結局高校生のやることだ。高が知れている。今のご時世では想像できないかもしれないが、あの頃は8クラスの1学年に10くらいのバンドが存在した。実際に活動していたかどうかは別として(笑)。しかも真っ昼間のテレビ番組にヘビーメタルバンドが生出演し、安いギターやベース、エフェクターが飛ぶように売れた。そういう時代だったし、ごろごろいるバンドマンの中には本気で人生を音楽にかけようと燃えているヤツもおおぜいいた。高校生だから当然自意識過剰で、誰もが「オレの方がうまい」とマウンティングしたがっていた。人生にはそういう時期も必要だと思う。
じゅんとあきと一献傾けることになったのは、たまたま私がラジカセを購入し、お蔵入りしていたカセットテープの発掘を始めたことがきっかけだ。当時の多重録音作品を久しぶりに聴き返したところ、あまりの下手さ、思い込みの激しさ、自意識過剰っぷりが怒濤のように押し寄せて悶絶した。まぁそれは想定範囲内ではある。実際あの頃でなければ作れなかった音でもある。レスポンスを半分期待しながら、SNSにそんな話題をアップしたところ、当のじゅんから案の定「聞かせろ」と反応があった。
わざわざデジタイズまでして聞かせてやったのだが※、当然筆者と同じ反応である。笑い過ぎて嘔吐したとまで言っていた。さすがじゅんである。あきとは頻繁に会うというじゅんが呼びかけて、仙台市内某酒場に集合、じゅんともあきとも、会うのは25年ぶりくらい、いや、もっと昔??というくらいの久しぶりさである。しかし会ってどんな話をするんだ?などという心配はこれ一切なく。実際会ってみれば開口一番から高校の放課後みたいなノリで、あっという間に時間が経っていった。2軒目は同期「だんちょう」が店長を勤めるバーに行き、当時の甘酸っぱい話からバカ話まで、深夜まで盛り上がったのだった。
と、ここまでがイントロである。以下本題。
じゅんもあきも人生経験を積んだが、楽器からは遠ざかって久しいという。あきはやっぱりまた始めたと言って、スマートフォンに入ったギターコレクションの画像をたくさん見せてくれた。じゅんはもともと演奏に血道をあげるタイプではなかったが、ムードメイカーだから、じゅんが取り持ってくれた縁や、盛り上げてくれたおかげでできてしまった曲はたくさんある。テクニック云々よりも、とにかく音楽をやりたい、人と違うことをしたい、アイツには負けたくないという思いだけで音を出していた頃のことが鮮やかに蘇ってくる。あきはその夜何度もこう言った。「やっぱり音楽に必要なのはパッション(情熱)だよな!!」。
冷静に考えて、人に届く音楽を作り上げるなら、パッションとテクニックは表裏一体、同等に重要なことは自明である。だがこうも思う。パッション無きテクニカルな演奏が人の心に届くだろうか?と。無意識に弾く100音の速弾きよりも、パッションを込めたたった1音のロングトーンの方が説得力がある。そんな境地には、死ぬほど運指を練習し、誰よりも速く弾くことに命をかけたような、「弾けるヤツがエライ」というスパイラルに陥った人でなければ到達できない。「テクニック無きパッション論」は空しいだけである。
私が尊敬する演奏家・作曲家の人たちの言動の端々からは「パッションは持ってて当然!」ということが伝わってくる。だからそういう人と会って話をするだけで励みになるし、いっしょに音を出してみれば「おまえはどうだ?」と問いかけられているようにも思う。誰だって長い時間ひとつのことを続けながらフレッシュネスを維持することは大変だ。音楽に限った話ではない。情熱を伝えるためにテクニックは大事なことは間違いない。しかし情熱がなければ何も始まらない。あき、おまえの言うとおりだぜ。
※わざわざデジタイズまでして聞かせてやったのだが
聴きたいって?聴かせられっか!そんなもん!