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北田了一・「小唄の会」其の参を聴く

ピアノ演奏に於けるウタゴコロとその場限りに立ち現れる音楽の儚さについて

· 音楽雑感,ライヴ
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2018年10月12日(金)、岩手県盛岡市紅茶の店しゅんにて北田了一さんのソロピアノコンサート「小唄の会」其の参が開催された。北田さんは服部の心の師匠である。心の師匠とはこっちが勝手に師匠と崇めているという意味で、北田さんが服部の弟子入りを認めた事実は無い。要は北田さんの演奏や発言から事あるごとに勝手にこちらが学んでいるに過ぎない。其の弐にどうしても参加できなかった不肖の弟子としては今回はどうしても聴きたかった(しかし服部に勝手に師匠呼ばわり、弟子宣言されて北田さんは内心迷惑していることだろう)。

それにしても「小唄の会」とはジャズをホームベースとするピアニスト北田さんとしてはなんとも意味深なタイトルだ。だがそれは2018年2月9日に開催された最初の会を、そして参回目の今回を聴きおぼろげながらわかったつもりでいる。まずは北田さんが某SNSに公開したセットリストをここに再掲する。

1st stage
Sunday(Chester Conn)

日暮れには(Frederic Francois)

I wish you love(Léo Chauliac and Charles Trenet)

Why try to change me now?(Cy Colman)

You are not alone(Robert Kelly)

2nd stage
Herbstlied(Tschaikowsky)

Prelude No. 20 in C minor(Chopin) - Could it be magic?(Barry Manilow&Adrenne Anderson)

Where have you gone(Barry Manilow)

When the saints go Marching in(arr.Ryoichi Kitada)

宙へ(き乃はち)

Winter Dance(京田誠一)

Encore
The Grace Lady(Ryoichi Kitada)

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紅茶の店しゅん

(岩手県盛岡市中ノ橋通1-3-15)

お店の佇まいもロケーションも

ママの人柄も店内の響きも

もちろん紅茶の味も

すべてが素晴らしいお店

アンサンブルの中で聴く北田さんのアプローチに、かつてガツンとぶん殴られるようなショックを受けた。もういつだったかは思い出せないが、会場と周囲に誰がいたのかははっきり覚えている。いつかこんな風に弾けるようになりたいものだ…と漠然とイメージしていたものを、実音としてあっさり示していたのが北田さんだった。ジョージ・デュークとかジョー・サンプルとか(誰でもいいのでご自身がお手本とするプレイヤーの名前を代入して読んでください)みたいに弾きたいけれど、ああいう世界のベテランみたいなプレイは悪魔に魂を売り渡さないとダメなんじゃないか…と私は常々思っていたわけだが、あの夜、北田さんはまさにそういう風にプレイしていたのだった。

北田さん…、悪魔に魂を売ったのか…。きっとそうだ

↑多分ちがいます

紅茶の店しゅんのソロピアノコンサートに於ける特等席はピアノの目の前にある階段が特等席とて、聴きたい人はその階段に座布団を敷いて聴くことができる。前回(初回)はそこで聴いていたので今回もそうしたのだが、ふと思いついて2nd Stageはピアノからちょっと距離のあるカウンター席に座って聴いてみた。これが良かった。特等席で聴いているとあまりにもピアノの音がダイレクトに聴こえすぎるのだ。1st Stageは左手の動き(左手が担当している音)ばかりへ気が向かってしまい、音楽を聴いているのかプレイを分析しているのかわからなくなって疲れてしまった。カウンター席ではピアノ全体の音、ちょうどレコードを聴いているような気持ちで聴くことができた。私にとって北田さんのピアノソロは「カルピスの原液」みたいなものだ。うかつに飲み干すと咽せるのだ。

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私のそんな精神状態を想像していただいた上で、改めて上記のセットリスト各曲のメロディを思い出してみていただきたい。北田さんがソロピアノコンサートのタイトルに「小唄」という言葉をわざわざ使った意味はまだ確とはわからないが、まったく堂々とした「歌」を持った曲ばかりだし、北田さんのプレイはウタゴコロ溢れるものだった。「唄」と「歌」の違いってなんだろう…と意味を噛みしめつつ聴く北田さんの演奏は、この夜は旬の白身魚の刺し身のような、噛めば噛むほど染み出る味を奥歯でじぃっと味わいたくなるような音だった。即興性とウタゴコロと店内の暖かいリバーブがあまりにも心地良くて、「このお店でこの演奏を改めてレコーディングしないんですか?」と訊いてみたことがある。初回の終演後だったと思う。これはぜひ記録しておいて欲しいと思ったのだ。しかし北田さんは言下に「しない」と宣言した。「この場限り」として立ち現れる音楽の意味というものを北田さんが大事にしていることがよくわかったのでそれ以上は言わなかったが、今もそのことを惜しいと私は思っている。同時にその場限りという覚悟で臨む演奏だからこそ達成できる高みを北田さんが目指していることや、音楽という芸術が持つ儚さのようなものは現代だからこそとても大事だとも思う。難しい問題だ。

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演奏中は写真撮れないので

休憩中の画像ばかりに…

今回この「小唄の会」の準備にはどれくらいの時間がかかっているのか質問してみた。「うーん。なんとも言えない」。おそらく1曲か2曲のキーとなる曲が決まり、そこからコンサートに通底するテーマを見つけられればあとはあっという間なのだろう。逆に言えばいつもこのコンサートのことを頭のどこかで考えているとも言えるわけで、そんな北田さんに「次も早くやってくださいよ」とは軽々しく言えない。ひとつ言えることは、次回も私はしゅんに足を運ぶだろうということだ。修業は続くのである。