サイトへ戻る

琥珀/服部暁典 ライナーノート

7年ぶりのアルバム発表によせて

· 音楽制作

本作に収録されているのはこのアルバムのために集中的に制作したものではない。ほとんどが前作「La Passione(2011年)」の前後から折々に作ってきた曲をトリートメントしたもので、純粋に作曲に着手した時期だけで測れば、実は2007年から2017年までの10年間に渡る。それだけの時間を経ていると、意図せず同じ手法を用いていたり、お気に入りの音色があちこちに登場するようになる。そういう制作上の手癖のようなものを調整するのがトリートメント作業の正体だが、それが作曲動機やアレンジ手法のコアな部分だったりすると、もはや手の付けようがない。発表するかボツにするかの二択となってしまう。その分水嶺を超えることができた作品が本作に収録されたわけだ。

さて10年に渡る制作期間を改めて俯瞰してみれば、一番大きな変化は作曲動機そのものである。

かつては自身が感動した風景や現象を音で写実するような曲作りに腐心してきたが、この10年の間に、メロディのきっかけになる音のつながりやハーモニーの展開など、音楽的興味から曲を練り上げていくことが多くなってきた。そのように楽器に向かって試行錯誤している時は、音と遊んでもらっている心持ちで楽しかったり、あるいは納得できるものにならず苦しかったりなのだが、楽しくても苦しくても切り上げ時が難しい。写実的作曲を行っていた頃は、その切り上げ時の規準は「写実できているか」の一点であり、シンプルだった。自分の頭に思い描く絵画的イメージが、このメロディでリスナーとイメージを共有できるか?それもできるだけ厳密に…。逆に言うと「写実できていること/リスナーとイメージを共有できること」だけが完成の規準であった。しかしコンポーザー側がどんなにうまく写実化できたと思っていても、お互いの脳内イメージの厳密な共有など実際には不可能である。それが実感できたことが作曲動機の変化を呼んだのだと思う。そしてコンポーザーとリスナーの想起するイメージは、むしろ少しズレている方、離れている方が良いのではないかと思うようになった。インストゥルメンタルミュージックとは、作曲者とリスナーの間にあるズレそのものに価値があるのではないかとすら思う。同時に制作者のよすがなど、そのように儚いものでしかない。

おもしろいことに、そのズレを許容できるようになればなるほど、曲のタイトルが具象化してきた。とはいえ本作収録曲タイトルは抽象的なものと具象的なものが混在している。まだ自分はコンポーザーとリスナーがイメージを共有するという幻想をはっきりと捨て去ることができないのだろう。そのかわりというか、アルバム全体を急・暖・急と分け、ライヴステージのような構成に各曲を配してみた。全体を通して聴いていただけば、なにか物語のようなものが見えてくるかもしれない。

1曲の例外を除き、本作収録曲はすべて曉スタジオで服部暁典が演奏し、録音してこのアルバムはできあがっている。ひとり多重録音は自分が小学生の頃から連綿と続けてきた、言わば自分にとっての原点である。2014-15年の2年間、他者との共演を極力避け、音楽的に自閉して考え続けてみた。「自分は何のために演奏するのか?」「自分が本当にやりたい・作りたい音楽とは何か?」。一定の結論が出たことで音楽活動を再起動したのだが、その最初の結実としてこのアルバムを発表できることは大変嬉しい。その思考期間の最初の回答として、ひとり多重録音という手法は必然でもあった。でき上がったアルバムを通して聴いてみると、作曲方法の変遷も含め、意図せず服部暁典の転換期のドキュメンタリーになっていると思う。